よそ者

朝の六時半の駅の改札口。
「だって一日有効なのでしょう?」という声で私は振り向いた。
見ると、ソレはヨレヨレの切符を見せて、
見た事のない色の声で、そのアクセントで、
困った顔の駅員の前に姿勢正しくシャンと立っていた。

「えっと、一日有効というのですはね、お買い求めになった日の零時まで有効という意味なのです」
駅員は情けない態度で説明する。
「僕はこれを昨日の午後一時に買った。一日は二四時間なので、今日の午後一時まで有効でないとおかしいでしょう」
ええ。まあ、おっしゃる通りですが・・・でも、その切符はもう無効なんですよぉ・・・。
駅員の顔は汗ばんでいる。背が高いソレの前では、駅員はよけい小さく見える。

「君は間違っている。それでは「一日有効切符」のはずなのに、半日分しか使っていないことになるのではないか」
ええーっと、そ、そうですが、その切符では改札は通せないんですよぉ・・・。
「すまぬ。でも、僕が正しい。だから、通らせてもらうよ」
ソレは自動改札を、ガードルを越えるかのように長い後ろ足で飛び越えると、
綺麗に着地して、人があまりいない朝の階段を、トントンと上って行くのだった。

朝帰りで、頭からアルコールが抜けない私だったが、
その光景を見て、目が完璧に冷めて、頭の中の霧が消えていった。
急いで自分の分の切符を買うと、ソレが向った方向にかけていった。
そして、ホームで見つけた。
ベンチで、眩しそうに、でも、ブスッとした表情で座っているソレ。

「喋るの、お上手ですね」と私は隣に座りながら話し掛けてみた。
「当たり前である。僕はもうここに四年も住んでいる」
私は眠気覚ましに、というか、ソレとの会話を鮮明に覚えていたいがために、缶コーヒーを買った。
口をつける前に、いかがですか、とすすめてみると、
「飲まぬ」と一言放ち、水筒から黄色の飲み物をコップについで飲みだした。

「それはなんですか?綺麗な色ですね」と言ってみたが、
中身の内容を聞いたとたんに、多少気味悪くなったので、私は自分のコーヒーをゴクリと飲んだ。
いざ隣に座ってみると、喋ることがあまりないという事に気づいてしまい、
私はここに座ったことを、少し後悔した。
ソレは、まるで私がここにいるのを忘れているかのように、前を見てひたすら喉を潤す。

「はじめの電車が来るのは、七時十三分である。でも、この駅は六時半から開いているではないか」
いきなり話しかけられて、そうですね。遅いですよね。としか私は返せなかった。
すると、「おかしいとは思わぬか!?」と頭をグルンッと私の方に向けて叫んだ。
「電車が来るのは七時より後。でも、この駅はそれより前より開いているではないか」
はあ。まあ、他の方向に行く電車は、七時より前なんじゃないですかね。

ソレは、私の意見など、全く聴いていないのである。
「駅をご丁寧に開けてくれておいて、電車が来ないのである。効率が悪いではないか」
そんなに焦るなよ、せっかちだな、と思っていると、どうやらそうではないらしい。
「電車が七時より後に来るならば、駅は七時に開けるというのでいいでしょう?」
まあ・・・・まあ、そうですよね。

この国は、前から思っていたのだが、でも、本当にだめだな。まったく。
そうですね。景気も悪いです。リストラなんてよくある話なんですよ。
ソレはしっぽの毛にゴミがついているのを見つけると、ブチンッと、その毛ごと引っこ抜いた。
どうやらちっとも痛くないらしい。やっぱり多少せっかちなのかもしれない、と私は思った。
しばらく黙ってハトの群れを、違う視点で眺める。

「戦争が起こるかもしれないのでしょう、近々」
そうです。迷惑な話ですな。非難しないといけないですね。
戦争に、八十万使うのでしょう。ええ、まあ、それぐらいかかるでしょうな。
「・・・・バスが二万台買える。もちろん、運転手つき」
どういう発想なんだ。私は笑いたいのをこらえるため、コーヒーの苦みで自分の顔を引き締めた。

戦争になったらどうするんですか。自分の国に帰るんですか?と聞いた。
「でも、僕は明後日母国に帰るので」。
面と向って言われると、さっき会ったばかりなのに、私は非常に悲しくなってしまった。
「そうですか。帰国になるんですかぁ・・・」とだけ言った。
そして、あっちの故郷自慢がはじまった。

「僕の故郷では、交通機関などももっと充実している。
駅員に、金がない、など、事情を話せば、ただで電車くらい乗せてくれる。
その他にも、切符を売っているカウンターの人の仕事は、チケットを売る事であって、
学割で安くすませようとしている人をつかまえる事ではなのだ。
そうあるべきだと、あなたも思うでしょう」

景気のいい話だなぁ、と思った。
そんなことで、駅員はしっかり給料をもらえているんだろうか。
「でも、それなのに、この国は、少しも融通が効かないでしょう。
皆が機械の心で、皆が金のために生きていて、
でも、そんなのが楽しい人生だ、などとは言えないではないか」

「僕は別に一日有効の切符が改札を通らぬ事については怒ってはいない。
ただ、でも、この国の人々の生き方に不満があるのだ」
僕はソレになんと言えばいいのか分からなかった。
流れに乗ってると楽だし、それなりに楽しくやっていけるんだよ、なんて、きっと通じないだろう。
どんなに言葉を沢山知っていても、きっと通じない。

アナウンスが入って、電車がプラットホームにすべりこんだ。
二人は無言で乗って、二つ開いていた席に並んで座った。
クラブに行って朝帰りの女の子達。
朝早くから出勤らしい、あくびばっかりしている男達の群れ。
どこから来て、どこに行くのかも知る余地がないだろう人々が、自分たちのペースで会話している。

「・・・沸騰している音に似ている、と僕はいつも思うのである」
え?何がですって?
「人が喋る音だ。僕は頭をちゃんと使わないと、この国の言葉を理解できないでしょう。
それで、ボーッとして人が喋る音を聴いていると、
水が沸騰する時のゴボゴボ、という音にすごくよく似ているのだ」

ソレの隣にいる僕は、ソレと同じよそ者のつもりで、自分の母国語を聴いてみた。
本当に沸騰するような音に似ている、ような気がする。
「綺麗。嫌いにはなれぬ、この音が。心地よくて」
そして、真っ白な包装紙で大切に包み込むように言う。
「僕はよそ者だから。だから心地よい。自分と関係ないから」

その言葉を噛締めながら、しばらくぼんやりする。
隣の若い女の指輪がキラキラと輝いている。
電車の窓から差す光の角度の変わり方のせいで、
ダイヤモンドは紫色に輝いたり、緑に輝いたり、黄色だったり、オレンジだったりした。
でも当の本人は、それに気づかず、疲れた、不細工な顔になりながら、枝毛を探しては抜いている。

「次の駅で僕は降りるので」と彼が言った。
何か会った証にあげたい、と思い、ポケットを探ると、
大人気ないわね、とからかわれながらいつも食べてしまうキャラメルが二つ入っていた。
「これをあげます。食べなくてもいいから、持っていって下さい」
ありがとう、では、さらばだ。とソレは微笑んで、電車から降りていった。

家に帰って妻に話したら、笑われてしまった。
あなた、いつからそんなメルヘンチックな幻想を見るようになったの?と。
ムキになって主張しても無駄なので、ほっておいて、そしたら、いつのまにか忘れていた。
だから、一週間後、会社の引き出しに、小さな小さな包みを見つけた時は、
その小包とソレは結びつかなかった。

包装紙は、薄い緑色の、透けるような、暖かいミルクの上にできた膜みたいな物で、
この国で売ったらさぞかし売れるだろう、と密かに思ったほど綺麗だった。
上司に見つからないようにラップトップの陰でそっとそれを開けてみると、
空のキャラメルの包みだけがまず出てきて、紙切れと、ティッシュのような物にくるまれた物が転がり出した。
四角のような円のような三角のような形の紙は、手紙だったらしい。全部ひらがなだった。

「きゃらめる は おいしかった。ありがとう。
あなたの くに で たべた もの の なか で いちばん おいしかった。
てぃっしゅ に はいっている の は ぼく の いえ の にわ に たくさん さいている もの の たね だ。
みず は あげないでいい。 たまに うた を うたって あげたり ねこじゃらし で くすぐって あげたり してくれ。
そのうち きみ の くに の ことば を おぼえる だろう」

紙の下の方に、「追伸」があった。
「ついしん:
きゃらめる は えいご で caramel。 かめら は えいご で camera。
おなじ c と a で はじまる のに きゃめら でも ないし からめる でもない。
きみ の くに の ことば は ほんとう に おかしい では ないか。 でも じつ は すき だ」

最後の最後までチマチマしたことにこだわる奴だ。
こっそり一人で一通り笑ってから、ティッシュを開いてみた。
青と緑が混ざった、強い色の石のような物が出てきた。
その色は、ソレの目の色によく似ていて、
僕はその「種」のひんやりとした、心地よい重さを手のひらに感じながら、缶コーヒーをゆっくりと飲み干した。



















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