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モグラと月
最期は、彼と「旅」をしていた。一ヶ月ほどだったと思う。
昼間は二人で、安いホテルで、「休憩」の料金で泊まる。
何もしない。
二人は、塊のように、眠る。
そして、夜になるとまた、移動がはじまるのであった。
闇の中であてもなく宝捜しをするように、ガムシャラに歩いた。
***
「なんだか、疲れてしまった」
作業中、彼がそう言ったのは、六月の、湿気た夜だった。
「ずっと、何かに追われている」
大体何のことなのか分かった。
その頃、彼の手の中から絞り出され、うまれてきた物たちは、泣いていた。
「旅に出ようと思う。最期のお願いで、付き添ってくれる?来てくれるだろう?」
彼は、自分勝手だ。という錯覚を、僕は時たま、覚える。
それまでの短い人生で、彼が数々の人間を、ひねり潰してきたのを、僕は知っていた。
彼はその年にして、色んなものを憎み、沢山の悲しみに包まれていた。
でも、それは、彼の、「皮の部分」だけだということは、
一緒にいくつもの物を見たり、それについて喋って、分かっていった。
彼の「実の部分」は、硬いが、甘かった。
僕はというと、彼に呆れられてしまうくらい、人を幸せにする事が好きだった。
旅に一緒出て、自分がどんなに、無力で、ちっぽけでも、
彼にとっては、多分、僕が必要だということは、なんとなくわかっていた。
ので、僕はただ、うなずいた。
彼はゆるく微笑んで、回転椅子ごと向きを変え、再び机に向かう。
机の上の電気スタンドが、その横顔を不安定な山吹色に染める。
彼は、甘い物が好きだった。僕は甘い食べ物なんて、吐き気がする。
僕は時計の秒針を眺めるのが好きだけど、彼の部屋には時計がなかった。
いつも僕に時間をきくのだった。
お互いに、共通して好きなものは、ほとんどないのかもしれない。
彼は、彼自身を嫌っていた。
僕は、「自分自身を嫌う彼」を、優しい気持ちで、好きだった。
***
旅の終わりの方の、ある夜の話を、今でも思い出す。
繰り返し、繰り返し、頭の中にフラッシュバックする。
それは、月の話だった。
僕たちがミルク色の光の下を、靴の音を聞きながら歩いていた時だった。
歩きすぎで、足の踵が痛かった。
げんなりと疲れた体で、なんとかバランスを取りながら、ビリビリする足をかばって歩いていた時だった。
「あの月は・・」
彼はしばしば、こんな口調で、いきなり話しはじめる人だった。
少し苛立ちながら空を見上げると、一瞬どこにあるのか分からないほど真上に、
怖くなるくらいに丸い、満月があった。
「どんなに俺達が前に進んでも、同じスピードで前に逃げていくだろ?」
そう言いながらも、僕たちは、チロチロと、前へ進んでいる。
まあね。と言うと、彼は、
「どうして・・手に入らないんだろうな」と、呆然とした声で、呟いた。
思わず彼を見下ろした。
ツルンとした、のっぺらぼうみたいな表情をしている。
「違うよ。僕たちが月を追ってるんじゃない。たまたま今、前の方を月が歩いてるだけだよ」
そう答えた。彼が色褪せてしまうのが恐くて、僕はあの時、確かに、そう答えた。
***
たどり着いた所は、山のような、海のような所だった。
大きな池があって、誰かが遠い日に置き去りにした釣り道具の化石が、池のほとりにあった。
夜で、肌寒くて、百合の匂いがして、悲しくて、水面の月は、丸くて、遠くて、大きかった。
「何になりたい?何になりたかった?」
彼は聞いた。
そっちこそ、何になりたかったのよ、と、僕は逃げて言った。
「なりたい物なんて、今更ないけれどね」
そう言って、しばし、手の中の物をこね回してから、僕を見上げて言った。
「あの、水面に浮かんでる、真っ白な穴の中に住みたい。ずっとそう思ってきたんだ」
何があると思う?
「何もないと思う」
じゃあ、どうして。
彼はゆったり笑って言った。
泣きたくなるほど、優雅に笑って言った。
「今も何もないから。今の俺に何かがあるなら、俺はここには来なかった」
僕は、どんなに痛い日々でも、短い人生なんて、つまらないと思った。
頭上の月を追い、日々に追われ、追われるからまた追いかけ、そのループから抜け出せない彼が嫌いだった。
こんなに彼を憎らしく思う僕の手に、ポンと置かれた最後の彼の作品は、悔しいほど、美しかった。
「お前は?お前は次は何になりたい?何をしたい?」
*****
「お前は?お前は次は何になりたい?何をしたい?」
俺がまだ人間だった時にアイツに聞いた、最後の質問だったと思う。
アイツは何と答えたんだったんだろうか。思い出せない。
今は、名前さえも、思い出せないでいる。
白い光が、頭の上に見えた。
巣の出口、昼間は、太陽の光が力強く細いラインを描いて入って来るそこが、
だんだん、小さくなる。
どんどん小さくなって、暗闇に包まれて・・俺は・・・。
「おい。おいってば」
揺り起こされて、やっと夢から冷めた。
洞窟のような、暗い、バーのカウンター。
「酔っ払うと、すぐ寝ますね、君は」
マスターの名はシゲハル。
モグラにしては珍しく、名前を持っている。
シゲハルというのは、彼の昔の名前で、
彼も、俺と同じように、昔は人間だったらしい。
「何の夢をみてたんですか、今日は」
「・・何だったんだろうな。思い出せない・・」
苦笑いしながら、マスターはグレープフルーツジュースを入れてくれる。
「君の事だ。昔の夢なんでしょう。どうせ」
少し違う気もするけど。と思ってから、ジュースをすすった。
「俺の・・昔の相棒は・・すごい物になりたがってたな・・」
なんだったかな、何になりたかったんだったっけ・・
閉店の準備をはじめるマスターの背中を、ぼんやりと眺めながら、俺は呟く。
椅子をひっくり返してカウンターに上げるシゲハルの背中が、抜け殻の俺に、冷たく言い放った。
「忘れなさい。無駄ですよ」
「俺だって、忘れたつもりだが、たまに、病的に思い出す」
「自分が何かを思い出してるっていう事を、封じ込めておく術を学ぶんですね、じゃあ」
アイツは、どこで、何をやっているんだろう。
どこで、何になっているんだろう。
俺はモグラになった。
今の俺の小さな体は、親から授かったあの肉体を自ら穴に葬った罰でしかないのかもしれない。
*****
見ましたよ。
年の暮れの、朝が近くなってきた空に青く照らされたカウンターの向こうで、シゲハルが言った。
「何を見たって?」
犬朗さん。
その風変わりな名前の持ち主の顔を、俺は思い出せなかった。
「イヌロウ?誰だ、それは」
君の、昔の、相棒さんですよ。「すごい物」になりたがってた。
店に来ましたよ、昨日。でも君が留守で。いつもタイミング悪いですね、君は。
「・・何になっていた?まさかモグラではあるまい」
「神になっていましたよ。
人間の姿で、背が高くて、着古してあるけど品のいいセーターを着ていました。
結婚して・・四歳になる女の子がいて・・・普段はサラリーマンっていうのを、やっているそうです」
「俺のことは?」
「君の事は、一応きいてみたんですがね、覚えていないようでした。
まあ、君には今、名前さえもないわけですから、しょうがないのかもしれないですね」
そこでシゲハルは、いつもしてくれるように、グレープフルーツジュースを入れてくれるのだった。
「俺はモグラになりたい、と思ってたが、
どういうモグラになりたいのかなんて考える余裕はなかった。
今思うと、あいつも、神になりたい、人を幸せにしたい、と考えていたが、
どういう神になりたいのかは・・配慮したことがなかったのかもな・・」
そんなもんですよ、死ぬ間際なんて。
そうシゲハルは言ったが、俺はそう信じたくなかった。
「それで、アイツは、犬朗は、今幸せなのか?」
「神なんて空しいだけだ、って言ってましたよ。面白いですね、あの人」
心優しいアイツが、神になって、
それで「空しい」という言葉を放ったというのは、衝撃的だった。
人を幸せにする事ができても、
その幸せを維持できない人間がいるという事に、気づいたからなのだろうか。
ふと、もしアイツも俺と同じようにモグラになっていたら、俺は嬉しいだろうか、と思った。
同じ言語を使い、昔のように、形のない物について喋ったりできたら、嬉しいのだろうか。
今はまだ、想像がつかなかった。
次にモグラでない物に生まれ変わっても、今のように、何もない世界がまた待っているのかもしれない。
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