名前の由来を、たまに人に聞かれることがある。
いや、それより、名前の読み方を聞かれることが多いのかもしれない。
「難しい字ですね。何て読むんですか?」と。

ジロウ。そう読むのである。
そしてそれは、「慈籠」と書く。
しかし、私は長男だ。

「慈」は、父と母の愛情を表す漢字なんだそうで、
「籠」は、あの果物を入れたりする、カゴ、である。
小学生のときは、習字の時間に、左端に自分の名前を書くのに、いちいち時間がかかったものだ。
そんな妙な名前に、私はみごとの名前負けしたらしい。
私は今、普通のサラリーマンをしている。
S駅から五駅ほど先の、快速や急行じゃ止まらない小さな駅のそばに、一人暮らしをしている。

料理も、うまくない。運動も特にはしない。
カラオケも、あの頭がワンワンする音が苦手だ。
身長はそれなりに高いけど、なで肩だし、痩せてるし、背は実際よりも小さく見えるらしい。
私には何もない。
あるのは、この、小さな羽だけだ。
でも私は、別に、飛べたりなんて、しない。

***

いつも待ち合わせはS駅、一番ホーム、喫煙エリア。
東京からは遠い、なんたらという町から出発する、
新幹線と電車をたして割ったような形の電車が、そのホームに止まるのである。
彼女はその、なんたらという町に住んでいる、らしい。
実際はどうなのか、知らないけれど、
いつも、その、新幹線と電車をたして割ったような形の電車に乗ってくる。

喫煙エリアは、タバコの匂いに覆われている。
座って吸うタバコの煙の向こう側で、電車のドアが開いて、彼女が下りてくるのを見るのが好きで、
だから待ち合わせはいつもここだ。

私たちは、外にいるときは、あまり喋らない。黙って歩くのだ。
彼女が歩くと、テクテク、と、乾いた音がする。
いつも私より少し先を歩く。
何かおいしいものを食べに行くときは、特に先を歩く。
それで、たまに、立ち止まり、フッと私を振り返って、はやく歩けとせかす。
ふりかえった時の彼女は甘い匂いがする、ような気が、いつもする。

彼女のことを好きになったのは、私の内面を彼女が好きになってくれたからだ。
私がいつも、ズボンのポケットに突っ込んで隠す、羽のことで、自慢したりしない。
「彼?やさしくて、ぼーっとしてて、甘えん坊で。それだけよ」と、友達には言う、と彼女は言った。

たまに、私の部屋で、溶けそうな時間の中で、
彼女は私の左手に頬ずりしたあと、ふと、私の羽に触れたりする。
彼女の頭をフワフワと撫でると、
彼女はいつも、猫みたいな細目になって、私の人差し指の羽を、薄い唇で、軽く、はさむ。
私は冷静を装っている。でも、羽のほうは興奮して、バタバタしてしまう。
「あーあ・・」と呆れてため息をつくと、彼女はまた、目をシュッと細めて、笑う。

「いつからなの?」と、彼女が小さな声で言った。羽のことである。
いつかの誕生日からだよ。私は答える。
プレゼントなんだ。空を飛んでみたいなぁ、と思ってて。
お願いしたら、中途半端に願いがかなってしまった。
「飛べるの?」。目だけ笑って彼女が言う。
寝返りをうって、窓の外を見上げて、長い間、私は考え込んでしまった。
いいや、飛べなくても。
そう答えて彼女のほうに頭を向けると、彼女は目を閉じて、枕にポトリと頬を落としている。
寝ているのであった。

二人で私のじゃない所いると、だいたいの日は、ひどく沢山あるく。
四駅分はあるく。
ほとんど、中身があるようなことは、喋らないで、
たまにフラッと、感想のような事を口にしたりする。
そうすると片方が、同意したり、しなかったりする。
そして、彼女はいつも先を歩くので、私は彼女の背中の形を、いつも後ろから見ている。

そんな彼女に最後会ったのは、実はもう三ヵ月も前のことだった。
こんな長い時間、彼女に会わないことはなかった。ので、少し困惑した。
行き先も、見当がつかなかったし、連絡も一切こなかったが、私は、わりと平気だった。

平気じゃなかったのは、羽のほうだった。
羽は、彼女の存在を、いじらしいほどに求め、
バタバタ、バタバタと動きを止めなかった。
彼女が好きな、トマトジュースを飲んだら、落ち着くんだろうか。
そう思って、買って、飲んでみた日の夜は、いつもより激しく動き回るので、
私は、自分の指から羽が取れるのが痛そうで、恐ろしくなり、絆創膏で羽を束縛したのであった。

それは、はじめての経験ではない。
彼女に会う前、私はいつも、なぜかS駅のキオスクでしか売っていないその特大絆創膏を買い、
近所の友達、クラスメート、恋人、同僚、上司にびっくりされないように、羽を束縛していたのだった。

それから一ヵ月後に、彼女は私の町へ帰ってきた。
その一ヵ月、私は、鼻かぜをひいた以外、特に変化はなかった。
変化があったのは私ではなく、またしても、羽だった。

なくなったのであった。
毎晩、絆創膏を張り替え、赤い箱の中に一枚だけ残った日の次の朝、
あっけなく、私の左手は、普通の人の手に戻っていた。

久しぶりに会った彼女は、前よりもさらに白くなり、少しふっくらしたようだった。
旅をしていたという。
一人で、北のほうにある、やけに難しい発音の名前の町に、だ。

旅行は楽しかった?と聞くと彼女は言った。
「ちっとも」。
彼女はそう言うと、レンゲを、子供みたいな握り方で握って、
私の作った、美味しいとは思えないチャーハンを、モグモグやった。
一人じゃ、何に感動しても、共感してくれる人がいないから、感動するのが億劫になったよ。
そう言うと、マグカップに注いだお酒を、ゴクゴク飲んだ。

彼女の飲みっぷりは異様だった。
そのあとの、彼女の甘えっぷりは、さらに不気味なほどだった。
いつもは、何十年飼ってても好き勝手にやってて手におえないペットみたいなのに、
今日は、私のあとを追い、私のあとを歩き、やけに求める。
そして、溶けそうな時間が訪れると、私は彼女に聞いた。
旅行中に何かあったのか、何か寂しいおもいでもしたのか、と。

彼女はしばらく何も言わなかった。
「慈籠は?」私を見上げて言う。
「何かかわった?何かあった?」と、静かに私は尋ねられた。
ので、羽がなくなったんだ、とだけ言った。
彼女は、いつものように、目を細めて笑うと、
目を閉じ、枕にポトリと頬を落とし、気持ちよさそうに、静かに寝息をたてた。

スタンドの明かりを消し、いつものように彼女の右手を握ってやる。
その、ふくよかな右手に、覚えのある感触のものがあった。
羽だった。それは、彼女の右手の、人差し指に、チョコンとくっついていた。

あらあら。とつぶやいて、その羽にそっと口付けすると、
羽は少し、パタパタと、喜ぶように動いた。
もう夜明けが近い。私も寝るとしよう。



















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