グラデーション

最後に母と話したのは、ついこの間、確か2ヶ月ほど前のことだった。
娘の綾の事とか、夏休みはどうする予定だ、とか、そんなたわいの無い会話だったように思える。
いつでも笑っていた母は、「父さん、最近お腹が出ちゃってね」と文句を言っていた。
最近よくCMでやってる健康食品、あれ、本当に効くのかなぁ、とか言っていたような気がする。
じゃあね、またね、と言い合って、電話を切ったのだろう。いつもそんな感じだった。

綾の夏休みまであと数日、という頃、父から電話があったのだ。
「母さんが・・庭で・・倒れて・・」。
目の前が真っ白になったが、「日射病みたいだよ。病院のベッドで元気そうにしてたから、心配するな」と言われた。
まだまだ若くて、シャキシャキと動きまわる元気な人だったので、心配なんてしていなかった。
数日後、そのままコロっと死んでしまった時は、信じられなかった。あっけなかった。

綾が寝つくまでは涙を見せまいと一生懸命我慢して、
その後一人になった瞬間から、私は呼吸困難になりそうなくらい泣き続けた。
仕事から帰ってきた旦那は、デスクランプ一つの小さな明かりの横で抜け殻になっている私を見てギョッとした。
私が母のことを話すと、数年前に父親も母親も失い終えていた心優しい彼は、一緒に静かに涙を流した。
「何か食べたらどう?。お前まで倒れるよ?」といって、一緒にテーブルの上で冷めた塩鮭をつついた。

何もかもトロトロやっていたら、いつのまにか夜中になっていたらしい。
髪の毛をゆっくり乾かして、電気を消して布団に入ると、沈黙が訪れる。
真っ黒で、布団の上からずっしりと重い、そんな沈黙。
「いつなの?お葬式」
旦那の低い、深海みたいな声が、横から私に聞いた。

「27日だって」
「・・・あぁ・・俺、ちょうど出張だ・・。ごめんな・・。まあ、夏休みなんだし、ゆっくりして来たらどう?」
「ん・・そうね・・。・・・綾は・・・どうしようか」
「どうしようか、って何?」
「連れて行くの・・・なんか、残酷じゃないかな」

「馬鹿。連れて行くに決まってるだろう。最後なんだぞ」
そこで会話が終わって、旦那はいつのまにか眠ってしまったらしい。
私の頭の中では、彼から出た何気ない『最後なんだぞ』という言葉が、
母がいなくなったという現実を、シュールに、私の中で形にさせた。
もう涙も出ない目で、闇の奥をずっと、ずっと見ていた。

綾には、まだ「死」というのがどういう事か、よく理解できないでいるらしかった。
旦那の両親は、綾がまだ赤ん坊の頃に亡くなっているし、
マンションでペットが飼えない我が家で、綾が「死」を体験するのは、ほとんどはじめてなのだ。
おばあちゃんはもういなくなったんだよ、と教えると、
旅行なの?とか、お留守なの?と、私を見上げて言うのだった。

私の故郷までは、新幹線で六時間。
それで、着いた駅から今度はタクシーで一時間半。
長旅で私も綾も疲れてしまって、タクシーの中はほとんど無言だ。
タクシーの運転手は、「里帰りですか?」「東京の人ですか?」とか聞いてきたが、
私が適当に短く答えていると、野球中継のボリュームを少し上げて、黙り込んだ。

私と綾を迎えた父は、前よりも少し背が縮んだようだった。
でも、数ヶ月前に母が言っていた通り、お腹だけは前よりもさらにビールっぱらになっていて、
それが私をなぜか安心させた。
「はるばるご苦労さん。食事、できてるよ。たいした物作れないけどな」と彼は言い、
私は父の、前よりも頼りない、少しだけ曲がってきた背中を見ながら、はしゃぐ綾の後に家に入った。

家の中は思ったよりきちんと片付いていて、懐かしい匂いがした。
素朴な夕飯を三人で食べて、母の話題を避けながら、世間話の間と間を縫っていると、
綾が頭を傾けて、眠そうにこっくりこっくりし始めた。
そろそろ寝た方がいい。と父が言って、
じゃあ、私、後片付けするから、綾と一緒にお風呂入ってあげて、と私が答える。

「お。そうか。悪いね」と言って、綾を起こしてから父は綾の手を引いて消えた。
テーブルから食器を下げてきて、シンクでゆっくりとスポンジで擦る。
水で洗剤を洗い落としたコップを食器立てに立てようとしたら、そこにコップが一つだけポツンと置かれていた。
あら、濡れちゃう、と思い、棚に戻そうとして、
乾ききったそのコップの底に埃が薄く膜を作っているのを見て、私は思わず手を止めた。

コップを下向きではなく、上向きに置いて乾かすのは、母のやり方だった。
「中に水が残って渇きにくいじゃないのよ」と私はいつも言っていたが、
「えー。でも、口つける所が、食器立てに触れるのがなんとなく・・ねぇ」といつも苦笑いしていた。
そのコップだけを、父が片づけられずに、そこに残している姿が目に浮かんだ。
私は、そのコップが濡れないように避けながら、他のコップを下向きに置いた。

お通夜と葬式はスムーズに済んだ。というより、いつのまにか済んでいた、という方が正しい。
母に似て活発な性格の叔母が指示を出し、その娘夫婦が気持ち良い態度で対応して、テキパキと全てをこなしていた。
役立たずの私は自分の立場を棚に上げて、「あの人達には感情ってものがないんだろうか」とぼんやり思っていたが、
遺体が焼かれる前、綾が「おばあちゃん、次はいつ出てくるの?」と私に聞いたのをきっかけに、
叔母が発作のように泣きはじめ、周りにいた数人もそれにつられ、涙を流した。

「なんだか、私はあまり役に立たなかったようだな」と父が帰り道にボソリと言った。
白っぽい蝶々を追いかける綾の背中を見ながら、「まあ、叔母さん達がやってくれたから、良かったね」と言った。
それは、お互いに言わなくても分かっているけれど、意味のない会話だ。
でも、そういう日常的な会話がないと、それこそ、生きている感覚がなくなってしまいそうだった。
父もきっとそうなんだろう。

葬式は綾にとっては、大勢の大人が黒い服を着て、
なぜか悲しんで泣いたりしてる所、でしかなかったかもしれない。
綾は家に着くともう眠そうだったので、私は一緒にお風呂に入って、おやすみを言った。
私は一人、濡れたままの髪で、クイズ番組をやっているテレビの前に座っていた。
テレビなんか、見ていなかった。見えているだけだった。今は全てがそうだ。

「お。起きてたか」と言いながら、寝間着のトレーナー姿で、首にタオルをかけた父が入ってきた。
「なんだか、せわしなかったな。こっちきてもう数日経つのに、二人で話する機会なんてほとんどなかった」
彼はそう言ったが、お互いに『二人で話する機会』を無意識に作らないようにしているだけだった。
まだ幼い綾を挟んで会話している事で、なんとなく明るい気持ちになっているような、
まるで何も起こってなくて、ただ夏休みだから来てるような、そんな気がしているだけだった。

フーッ、と彼はため息をついてから、
テーブルの上にあった烏龍茶の一リットルのボトルからラッパ飲みした。
それは父の悪い癖で、まだ私が嫁に行く前、私と二人だけでいる時は彼はよくそれをやった。
それを見るたびに私が冗談で「いけないんだー。お母さんに言いつけるよ」と言って、
彼は「ああ、だめだめ!!内緒内緒!」と焦りながら、でも楽しそうに言うのだった。

夜は油断していると、時間の感覚をずらす。こういう、静かな空っぽの夜はとくにそうだ。
今の状況を思わず忘れて、「お母さんに・・」が出そうになった私は、顔を上げた。
すると、やっぱり一時的に感覚がずれた彼は「やばい。言いつけられる!」という表情をして、私と目が合った。
「・・・・」と漫画の一コマのような無音の時間が三秒くらい駆け抜け、
私が吹き出し、父が顔を皺くちゃにして、私達は久しぶりに笑った。

「ああ、なんだか久しぶりに笑ってしまった」と父は目を細めて言った。
そうだね、と私が返すと、部屋はテレビの音だけになった。しばらくテレビを眺めていた。
「父さんの頭の中にな・・・みんなの席があってな・・」
いきなりそう言うので、とうとう父がおかしくなったかと思ったら、違った。
「それで・・・今まで会ってきた人がみんなそこに座ってるんだ」

たまに父は、ゆっくりした口調で、悲しい曲を歌うように、こうやって話すことがある。
「・・・会ったのが昔すぎて、もう会わないような人は、席だけ残ってて、
昔に会って、最近会ってなくて、でも文通とかしてる人は、遠ぉーくの方に座ってて、
遠くにいたけど、最近ひさびさに会った人は、近くの方に椅子ごと移動して座りに来て、
そんな感じで、父さんに会った人は、みんなそれぞれさ、父さんの頭の中に席があるんだ」

多分その座席の前の方に座っているらしい私は、実際には父の前に座って、彼の悲しい曲を、黙って聴く。
「母さんの席なんていうのは・・もう、その沢山の席の列を写してるカメラのレンズが半分隠れるくらい、
すごい手前にあったんだけどさ・・・ないんだな。今は。
なんだか・・もう、席ごとなくなってしまった。そこだけ白っぽく・・残ってる。気配だけが」
息ができなくなりそうだった。喉が苦しい。

「人が・・・いなくなる・・・・っていうのは、まあ、そういう事だな。たぶんな」
まだ「死」という言葉が口から出せないんだな、と、途方にくれそうな静けさの中でこっそり理解していた。
「・・・お願いがあるんだ」
レンズからこっそり覗き見しているような声で彼は言った。
何?と私が言うと、やりにくそうな顔で切り出した。

「母さんの・・・私物・・とかを・・・を、整理してくれる気はないか?」
もう母がいなくなってから結構時間が経っているのに、母の部屋には入ったものの、何も触っていないという。
「ああ。なんだか・・・下手に押し入れとかをかき回すと・・その・・怒られそうな気がして・・・」
父は物を探すのが下手くそなのだ。
テキパキしている母はいつも、「父さん。私、やるから」と言っていたのだった。

馬鹿だ。もう、母はいない今、この家は自分の物なんだし、好きにかきまわせばいいのに。
でも、そんな事、冗談でも言える気分になれなかった。
「ん。分かった。どっちみち夏休みだから、あと数日いる予定だったのよ」と私は力強く言った。
父は、すまんな。と小さく言って、下を向いた。
雨に濡れた犬みたいに、ちっぽけで、惨めな姿だった。

そんなわけで、私は母の物を整理する作業に翌日からかかった。
綾は、一人で適当に遊びに出かけたり、父が近所のプールに連れ出したりしていた。
日中は押し入れの中や、箪笥の中を整理したりして、
夜は娘と、父親と、みんなで浴衣を着て庭で花火をしたり、すいかを食べたりする日々。
綾は夏休みを満喫し、私と父は過去を忘れようとしているのだった。

箪笥の中はともかく、押し入れの中は迷路のようだった。
ぎっしり、上から下まで隙間なく積み上げられている箱のレイヤーが、ずっとずっと奥まで続いていて、
こんなに物だらけの押し入れから、魔法のようにポンポンと何でもすぐ出してみせた母は、
ダンジョンの中の勇者みたいだ、と本気で呆れた。
父が遺品の整理をしたくなかったのは、この複雑さを知っているからというのも、あるのかもしれない。

箱の中を一つ一つ開けていく作業は、さらに気の滅入る作業だった。
中から出てくるほとんどは、くだらない物ばかりだったからだ。
私が小学生の時に、家庭科で作ったエプロンまで取ってあるのだから、わけが分からない。
嫁に行く前まで私が使っていた部屋は、左はゴミ、右は遺品に分かれていたが、
左の物は次第に溢れて、‘部屋の半分から右の部分’も‘左の続き’になってくる。

庭のはしっこにタイムカプセルのように置き去りにされていた物置は、半分以上がアルバムで埋まっていた。
はじめの一冊が出てきた時は、「いい写真だけ取り分けておこうかな」と思ったが、
四つの大きな箱にそれを同じ表紙のアルバムが十数冊ずつ入って出てきた時、その気力を失った。
高校で知り合って、数年後に恋愛結婚した父と母のフォトアルバムは、
もちろん高校時代から始まり、ズルズルと、この間の春の香港旅行まで、きちんと時を刻んでいる。

私は昔の自分が懐かしくなり、両親の長い歴史のその間の部分の写真だけ見てみた。
その中に、赤ん坊でまだ小さい私の鼻に、
父が釣りの時にだけかけるサングラスがデンッと乗っている写真があった。
うちの旦那がこの間自分のサングラスを綾にかけさせて笑っていた場面を思い出して、
本当に歴史は繰り返すもんだなぁ、と、少し一人で笑ってしまった。

そのように、楽しかったり、呆れたりして、寄り道を繰り返しながら作業をしていた。
一週間くらいが経過すると、さすがに家の大半の部屋は片付いてきた。
あとは、そんなに大した作業がないだろうと思われる台所、玄関と、
なんとなく避けてしまっていた母の部屋が残っていた。
台所と玄関を午前中で片づけて、その午後は綾と父と三人で遊びに行って、次の日、母の部屋のふすまを開けた。

「きっと父はあのまま母の部屋の物を触れないでいるんだろう」
あの上向きで、底に埃がたまったコップを見つけてしまった時から、これは覚悟していた。
そしてドキドキしながら部屋に入ると、やっぱりそれは本当だった。
なんか臭いなぁ、と思って机の上をふと見ると、書きかけの家計簿と、匂いの元の麦茶のコップがあって、
私はまずそれを、鼻をつまみまがら、台所に持っていった。

母の部屋に戻って、ふすまを閉めて、こんな物までも処理できなかった父を、少し哀れに思った。
この間『すまんな』と言った時の、こっちが寂しくなるほどの惨めな姿が頭をかすめる。
テキパキ働いて、泣きそうなのを堪えようと、部屋をとりあえず見渡したら、
本棚の古い料理の本や、ずっと使っていた万年筆や、クリーム色のカーラーが入ったバスケットに母の姿がちらついて、
泣かずにいられなくなってしまった。

一通り泣いて、鼻をグスングスンやりながら、とりあえず本棚から整理しはじめた。
私と母は、本の趣味は似たようなものだったので、半分くらいはもらって帰ろう。
意外と物が少ない母の箪笥は、あっという間に片付いてしまった。
途中で、ガムテープで封印された箱が五つでてきたが、それは後回しにすると、
やってもやらなくても変わらない机をのぞいて、全てが片付いていた。

母はガムテープが嫌いだった。
「ああ・・・便利だとは思うんだけど、ベリベリッとやった後のあのベトベトが・・ねぇ」といつも言うのだった。
その母がガムテープで封印した、同じ形の箱が五つもあるのだ。相当な物が入っているに違いない。
だからなんとなく後回しにしていた。
何かの儀式を始めるような気分で、私は五つの箱を前に、カーペットの上に正座した。

ガムテープは、のりの部分が乾ききっていて、『ベリベリッ』なんていう音はしなかった。
『ペロンッ』と、がっかりするほど簡単にはがれてしまった。
五つ一気に開けてから、中身を全部、床に積み上げてみる。
全部同じような大学ノートで、表紙に日付が書いてあるそれらは、どうやら日記らしい。
「プライバシーの侵害かしら」と思ったが、「遺品の整理だから」と自分に変な言い訳をして、ノートを読みはじめた。

日記は、思いっきりつまらない事が沢山ずらずら書いてあるだけだった。
「今日は買い物に行ったら、八百屋のおじさんが20円まけてくれて、よかった」
「今日は響一と庭にクロッカスを植えた。花が咲くのが楽しみ」
「クロッカスは世話が大変。だけど、綺麗です」
・・・・・こんな日記、小学生でも書ける。

数冊、パラパラとめくったが、毎日書いているわけでもなさそうだった。
しかも、書いてある日の分は、全部同じようなノリだった。
何のために書いているんだろう、と、つい失礼な事を考えてしまった。
これなら、フォトアルバムの方が全然マシだ。
母は、父もわりとそうだが、写真が大好きで、一眼レフは夫婦で三台も持っている。

「やれやれ、これは全部ゴミの一部にしちゃおうか。それでフォトアルバムを取っておけばいいね」
独り言を言いながらノートを数冊掴んで箱に戻そうとしたら、何かがスルリと床に落ちた。
それは、少し黄ばんだ、でもどうやら真っ白だったらしい封筒だった。
裏は、しっかり「〆」の字で封印されていて、何も書いてなかったので、表を見てみた。
「10年後の私へ」と母の字で書いてある。

10年後っていうのは、もう実は今から数年前だったんじゃないの?と考えると、少し可笑しかった。
日にちを確かめたくて、ためらわずに封を切った。
封筒と同じシリーズの真っ白だったらしい黄ばんだ紙が三枚出てきた。
一番最後を見ると、『昌子(41歳)より。』となっていて、
計算したら、手紙は数年前に開けられるべきだった物であるというのが分かった。

たまにおっちょこちょいだった母がこの手紙のことを忘れていた事が確かめられたので、
紙を封筒に戻そうとしたが、ここまで来ればプライバシーの侵害も何もないわね、と思い、
やっぱり読んでしまうことにしてしまった。
私はとりあえず他のノートをバサバサやって、他に封筒が出てこない事を確かめると、
日記を箱に戻してから、机に座って、手紙を読みはじめた。

*** さっき香織が夜遅くになって帰ってきました。
今日の帰宅は10時。
この間よりはいいわね。
この間は11時近くに帰ってきたので、思わず「どこに行ってたの!」と叱ってしまいました。
でも、どこに行ってたか、なんて聞かなくても、ここは母親の勘で分かってしまう物ね。
香織には、多分、ボーイフレンドができたのでしょう。
今まで適当にしばっていた髪の毛をちゃんとサラサラになるまでブラシをかけるようになったもの。
絶対そうです。間違いないです。
でも、面と向って「ボーイフレンドできたの?」なんて聞ける年頃じゃない事は、
私の体験から、よぉく分かっています。
だから我慢して、聞かない。
だからこうやって紙に書いて、もどかしい気持ちを発散させてるのです。
馬鹿な私。
とほほ、です。

と、そんな事を考えていたら、自分がまだ「娘」だった頃を思い出してしまいました。
響一と会った、高校の頃とかを、思い出してしまいました。
高校三年で、週三回くらいの頻度でピアノのレッスンをしていて、変わり者で通っていた響一が、
突然私が部長をやってた写真部の部室に入ってきたのが出会いでした。
「親の敷いたレールの上を走るのなんて、まっぴらだ!!」とか、
かっこいい事をいって、その日、その場で入部したんだっけ。
そしたら、なんてことはない、ただ私に気があっただけで、
でも、部室から勝手に持ち出したカメラで、

女の子のパンチラ写真を撮ろうとして階段で待機してたら、 先生に見つかって怒られたんだよね。
本当にお馬鹿な人です。
今でもそう。ちっとも変わらない。
「フルーツの果汁入りって書いてあるのに、なんで種とか皮とかが入ってないんだ」とかぶぅぶぅ言いながら、
いい歳して、カラカラ音を立てながら飴をなめている、
そんなのん気な人です。
種なんていちいち入ってたら、面倒くさいじゃないのよね。
『種とか皮とか』入ってたら、キウイとかいちごの飴なんて、気持ち悪いじゃないの。
響一は、そんな風に、お馬鹿だけど、でもなぜか癒される、そういう人です。今も、昔も。
そんな響一に世話をやき始めた、高校生だった私は、
いつのまにか当時の恋人(陽君、かっこよかったのにな)と別れて、
響一と付き合いはじめて、ずるずると結婚してしまったのです・・。

その、元気だけが取り柄、(なんとか、は、風邪ひかない)、みたいなあの人も、
最近はたまに「腰が痛いんだよなぁ」とかなんとか言うようになって、
ああ、歳取るって、こういう事なのかな、と思っているのです・・・・。

この間、私が小学校四年生だった時の担任の長谷川先生が亡くなりました。
ご病気だったみたいね。
でも、お葬式には行けなかった。
お葬式があった後に、美代ちゃんに聞いたのです。美代ちゃんも知らなかったって。
残念で仕方がありません。すごく尊敬できる先生だったからね。

普段からの指導も好きだったけど、何しろ四年生最後の社会科の時間が忘れられません。
もう三学期もあと数日で終わる、っていう頃で、
長谷川先生も、その年度で退職だったから、
私達にとっても「長谷川先生の最後の社会科の授業」で、
先生にとっては「社会科を最後に教える授業」だったんですねぇ。

授業が始まる前、彼は教卓の上に、白いチョークを置きました。
教室が「シン・・」となっていると、先生が、言いました。
「ここに、白いチョークがあります。誰も触らなかったら、これはずっと明日もここにあるね?」
生徒はみんなうなずいて、「何だろう?何を言いはじめるんだろう?」と興味しんしん。
「じゃあ、もし、これを誰も触らないで、置いておいたら、チョークは10年後、どうなってるでしょう」と先生。
生徒が手を上げて、「スカスカになってる」「色が変わってる」「粉になってる」「ドロドロになる」等と言いました。
先生は反応を聴いて、満足してから、聞きました。
「じゃあ、その変化は、10年後、突然起きるのかな?」。
生徒が黙っていると、先生が言いました。
「違うよね?少しずつ、粉になっていったり、色が変わっていったりしてるでしょう?。
こうやって、先生が喋っている間も、チョークは変わっているんだよ」と。
「先生もそうです。少しずつ変わってます。
君達なんて、成長期だから、もっと大きく変化しているんだよ?
10分前の僕らと、今の僕らは、もう違うんだ。10年後はもっと違う」
先生はそこまでいって、今の、大事な事。覚えておいてね?と笑ってから、授業をはじめたんだよね。

たまにさ、夜、寝る前とかに、思い出してしまうのよね、その言葉を。
それで少し悲しくなるの。
「私、今、どんどん老いてる」って。
「香織も、今、どんどん大人になってて、そのうち結婚して、家からいなくなってしまう」とかね。
香織に話したら、「お母さん。そんなおばあちゃんみたいな事考える前に、やるべき事やっちゃいなよ」って言われちゃうよね。
だってあの子はまだまだ若い。
まだまだ生きてきた年数が少なすぎて、多分分かってくれない。
昔の事って、変えられない、戻れない、どうしようもないってこと。
それで、そういう思い出ってものは、だんだん色が薄くなってきて、
覚えてるコマも少なくなっていって、
そのうち思い出せなくなってしまう。焦るくらいに。

だから私は写真が好き。というか、必要なのよね。
流されて、なくなっていってしまう物を食い止めておくのができるのは、
「思い出の品」とか、写真とか、そういう・・証拠みたいな物だけだからね。
でも、その思い出の瞬間を捕まえた!と思っても、
それもどんどん歳とってさ、
黄ばんでしまったり、やぶれたり、跡がついたりするでしょう。
だから、そういう「証拠」みたいのも、ないよりはマシだけど、切ない物だなぁ、と最近つくづく思うのです。

・・・・と、
こういう気持ちとかもさ、書き留めておかないとさ、
そのうち忘れてしまいそうだから、書いてみたんだけど、
これは日記ではないよなぁ、と思うので、手紙にしてみました。
長谷川先生の事をおもって、10年後に開けることにするね。

10年後。
私はどうなってるんだろう?
響一も、ビールっぱらのオヤジになっちゃって、禿げちゃうのかな。
香織はきっとハンサムな男の人と結婚することでしょう。
10年後っていったら、香織ももう26とかだもんね。
赤ちゃんは、男の子かな。女の子かな。
女の子だったらいいなぁ・・・なんて、勝手だよね。

でも、こうやって手紙を書いている間に、
少し、空が明るくなってきて、
雨もやんで、
紅茶も冷めてしまって、
ずっと椅子に座ってたおしりがちょっと痛い。
私も少しずつ歳をとっているらしくて、
それは悲しい事に思えて、切ないけどさ、
孫の顔を拝める日が近づいてきてて、
明日(あ、もう日付変わってるから今日)、三人で久々にお寿司を食べにいくっていう約束にも近づいてて、
嬉しいような、楽しみなような、そんな気分になれるのです。

今日もいい日でありますように。
10年後の今日も、いい日でありますように。



















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