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白ハンカチ/白ティッシュ
私がその人が顔見知りになったのは、ステキなグウゼンでも、ウンメイのデアイでもない。
ただただ、彼の散歩のコースと、
私のジョギングコースが同じなだけだった。
共通点は、「どうやら近所に住んでいる人らしい」という、
それだけの小さな事だった。
毎朝のジョギング中に同じ顔ぶれに会うことは多い。
それは、私もそうだけれど、毎日ジョギングする人っていうのは、
ほとんど毎日同じ時間に、同じコースでするものらしいからだ。
違うコースを辿れば、走るのに集中するより新しい発見をしたくなるからかもしれない。
走る事になんて集中するのは、意外と神経を使う。
ジョギングしない彼は、公園のあたりをぼんやりノコノコ歩くのが趣味らしかった。
いや、歩くのが趣味なのではないらしい。
どうやら彼は、わざわざ公園の野良猫に会うために、
毎朝起きて、毎朝ノコノコ歩いているらしい。
そう私に思わせるくらい、彼はいつもその猫をいじくりまわしていた。
私達は話をしたことがなかったし、顔を知っているだけだった。
でもある日の午後四時の街の雑踏の中で、
彼の手は私の肩に触れた。
ナンパされた、というのではない。
むしろ、ナンパされていたところを助けてくれたのである。
私の横をしつこく付きまとうガリガリ男の後ろから、彼は猫のようにひっそり現れると、
私の肩を親しげにポンと触れた。
振り向いて、「あ。散歩の人だ」と気づいて、ありがたく思った。
しかし、その口から出た台詞は、かっこいいスーパーマン台詞ではなく、
なんともショボかった。
「えっと、あの、お姉さん、・・ハンカチ・・・落としましたけど」
彼の手に握られていたのは、明らかにハンカチではなかった。
100mほど後ろで配られていたポケットティッシュだった。
ガリガリ男はあまりにもショボいレスキュー男の登場に呆れて、
携帯をおもむろに出してカチカチ何か打ちながらいなくなった。
あのさ、せめて「これ、俺の彼女なんですけど」とか言おうよ。
思わず彼にそう言ってしまった。
すると彼はきょとんと私を見て「へ?」と目を丸くした。
どうやら嘘が相当下手らしい。
私は失礼だと思いながらも大笑いし、彼は少し赤くなった。
年下っぽかったので、お礼に飲み物でもおごってあげようと思い、喫茶店に入った。
「コウタロウ」と名乗るので、どういう字なの?と聞いたら
さんずいに光る、って書く「洸」に太郎、と答えた。
綺麗な名前だね、と言った後に、自分の名前も名乗った。
私はカフェラテで、彼はココアを頼んだ。
「歳、いくつなんですか?」と彼が言うので、
二十歳になったばかりよ、と答えた。
明らかに二十歳には見えない顔なのだが。
すると高校生だと勝手に思い込んでいたその人は、
「あー、じゃ、年下だったんだねぇ。俺二十二」と少し笑った。
沢山の人が行き交う大通りがガラス窓から見えるテーブルでずいぶん沢山話した。
「大学は何専攻なの?」という質問に来た時、
「あー、俺、学校行ってないんだー」と言った。
ふーん、聞き流させる何気ない口調だったので、話題は次へと移り変わった。
結局店を出る時、育ちの良さがにじみ出るような趣味のいい財布から彼は私の分まで払った。
「じゃあ、また朝会うかもね」と言いながら公園の前で左と右に別れた。
家に帰って姉に「こんな人に会ったんだよ」といって、
一通り冷やかされてから、あれ、好きになったかな、と気づいた。
次のジョギングで会うまでは増えようがない彼に関しての情報を増やそうと、
漢和辞典で、普段あまり使わない「洸」という字をひいてみた。
まず一般的な意味の『水がわいて光るさま』が出た。
『ほのか』『かすか』というのを見て、はかない字なんだな、と知った。
そういえば、背が小さくて細いよなぁ、と思い出していると、
『ぼんやりしたさま』というのも出てきた。
あまりにも彼っぽかったので、一人で吹き出してしまった。
次の朝、いつもよりはマシなジャンパーを着てジョギングに出ると、
公園の所で例によって彼は猫にシーチキンの缶詰をあげていた。
「おはよう」と足をとめて笑いかけると、彼は短く「おはよう」と返した。
さて、何を話そうかな、と思って立っていると、
「ジョギング中なんでしょう。足止めないで走った方がいい」と言われてしまった。
ジョギング中だって、別に止まってもいいのに、と思ったが、
「そうね、じゃあ、また明日」というと、少し笑って片手だけ上げてくれた。
喫茶店で話した時はニコニコして沢山話してくれたのにな。
ごちゃごちゃ考えてたらいつもと違う道に入ってしまい、
「ああ、いけない」と方向転換してちょっと走ったら気づいてしまった。
喫茶店で彼は常にニコニコしてたわけではなかったのだ。
むしろ、しっかり思い出すと、彼はそんなには笑ってはいなかった。
すごく人懐っこい顔のくせにあまり笑わないから、
笑った時のその笑顔が放った何かが頭の中でエコーしているだけだった。
『いつもよりはマシなジャンパー』がなんだか浮いていて、何かが空回りしている。
でもある日、近所のコンビニで商品管理の制服を着て働く彼をたまたま見つけた時、
毎日ジョギングの途中に顔を見ているくせに、やけに嬉しくなった。
そして、少し緊張して湿った手を後ろにかくして、
今度、ジョギングじゃない時に会ってみうか、と言ってみた。
いいよ、とちょっと笑って、彼は簡単に答えた。
そういうわけで、通り雨の後にポカポカと晴れたS駅で待ち合わせした。
水溜まりの光を見ながら待っていると、お日様色のコートの彼がノコノコ歩いてきた。
ジーンズに猫の手足の形の染みがあったので、「どうしたの?」と聞くと、
猫がいてさ、地面が濡れてんの忘れてひざに乗せようとしちゃって。と言った。
私はいつまでもクスクス笑いながら、二人で一駅分ブラブラ歩いて、その街を散歩した。
あー、ちょっとここよっていい?と彼が入ったのは画材屋だった。
その古い店のおじさんは、「おお。洸太郎」と彼に声をかけた。
洸太郎は、挨拶もなしで「アクリルの黒でさ、ブツブツが出ないのが欲しいんだ」と言った。
あー、やっぱ出た?あそこの会社のって黒だけ出るって聞いた事はあるんだけど。
じゃあ、こっち黒をあげよう、とおじさんは笑った。
前の絵の具が欠陥商品だったからか、その黒い絵の具を洸太郎はただでもらっていた。
店を出て、知り合いなんだねー、よく来るんだ?と言うと、
うん。週三回は来るよ。俺、絵描きになりたいんだ、と、真面目な顔で彼は言った。
無関係の道を歩んでいる私にとってはすごい事に思えて、すごいなぁ、と言うと、
照れた顔でちょっと笑って「ありがとう」と言った。
前よりも彼は笑顔が多かったし、
ナンパから救ってくれて喫茶店に行った日よりも、
歩く二人の間が10cmは縮まっていた。
荷物をわざと持ち替えて空になった左手で、
あっちが握りかえせば手をつなげるような形で、彼の右手に少し触れた。
洸太郎は不自然に右手を動かした。
「最近手先が寒くて」
触った時、私よりも暖かかった右手を薄手のコートにを突っ込んで、彼は言った。
彼は言い訳も相当下手らしい。
私は頭の後ろから柔らかい物で思いっきりぶたれたような感じがした。
そのあとはいつものように沢山話した。
いつもの公園まで来た時、「今日は楽しかった」も「また散歩でもしよう」も無しで、
「じゃ。またな」、「うん。またジョギングで」と言い合って、左右に別れた。
家に帰って、薄いけれどきちんと時間をかけてしたお化粧を落としてタオルで顔を拭くと
寂しさと悔しさと失望とが入り交じって、涙になって落ちた。
次の日、公園に彼はいなかった。その次の日もいなかった。
でも猫だけは相変わらずそこで彼を待っていて、
それは、彼の『かすかな』存在を余計強調していた。
私の中では何かがずっと空回りして、
この間の別れ際の、乾ききった『じゃ。またな』を信じるしかなかった。
それから十日間ほど、彼の姿は消えていた。
時々公園も見に行ったが、彼はいなくて、猫だけは寂しそうにやっぱりそこにいた。
しょうがないので、私もその猫を撫でていたら、
今まで白い猫だと思っていたが、しっぽの根元のあたりに、
ちょうど墨汁が半紙に滲んだように黒い毛が丸い形にはえていた。
それを見た時、彼の消息をつかむ方法思い付いた。
私は電車に一駅乗り、画材屋に走った。
店番をしていたのはこの間洸太郎に黒い絵の具をただであげたおじさんだった。
「すみません。洸太郎君、最近ここに来ましたか?」
はぁはぁ息を吐きながら、祈るような思いで私は早速おじさんに聞いた。
「ん?あいつか。今朝来たよ。その前は二日前くらいだったかな」
あっけらかんとおじさんは言った。
洸太郎は遠くへ消えたわけではなく、彼の生活はいつも通りのサイクルで繰り返されていて、
ようするに彼は私を避けているだけなんだと気づいて、呆然となった。
「あー、もしよかったら電話しましょうか?洸太郎の携帯に」
番号、ご存知なんですか。ええ。じゃあ、お願いします、というと、
「いやいや、知ってるもなにも、父親なんですよ。似てないですかね?」と笑った。
私は驚いて、開いた口がふさがらなかった。
顔は似ていないが、そう言われてみえば「ん?」とか、「あー」とかの言い方が、
笑えるくらいにそっくりだった。
「もしもし。洸太郎に会いたいっていうお嬢さんが来てるけど。
・・・ん?あー、そうそう。黒髪のショートの人だよ。
そうか?じゃあ、そう言っておくよ。・・はいはい。んじゃ、またな」
受話器を切ると、おじさんは「S駅前の喫茶店に入っててほしいそうだ。
今違う用事で結構遠くにいるらしいよ」と私に言った。
わかりました。ありがとうございました、と言って店を出ようとしたら、後ろから止められた。
「あー、待って。お嬢さん、もしかして洸太郎の彼女かい?」
「・・いえ。違います。近所に住んでて最近知り合ったんです」と答えると、
「そうか・・知り合いとか友達は極端に多いんだけどね、深い友情とか、愛情とかになると、
やけに身を引く奴で。まあ、広く浅く、といったところかな」と、彼はゆったり言った。
S駅に戻って、言われた喫茶店に入った。
ほとんど真っ白になるくらいに牛乳を入れて、ミルクティーを飲んだ。
全部飲み干す寸前に、和風なカップのその色がミルクティーの下に少しだけ透けて見える。
その色を大切に、本当に大切に見ていると、前の席の椅子が動いて、
ごめんね、待たせて、と言いながら、彼が座った。
久しぶりね。うん。そうだね。今どこ行ってたのー?友達の家。そっかぁ。
そこで会話は止まったままになった。
嬉しいのに少し気まずかった。
多分全部、私の気持ちがバレているから、ぎこちないのだろう。
先に沈黙を破ったのは、彼の声だった。
「あー・・っと・・」・・そこで彼は止まった。
ココアが来て、一口飲むと、「あー・・ごめんね・・・なんか・・避けてて」と言った。
やっぱり避けてたのか、と思いながら、いいよ、と言うと、
彼は淡々と喋りはじめた。
沢山話したのに、今まで聞いたことがない彼自身の事を色々と。
絵は小さい頃からずっと好きだったこと。
本格的に始めようと思ったのは高校生の頃だったこと。
成績はまぁまぁだったし、友達も多かったけど、学校というのが嫌いで、
通信教育で高校の勉強をさっさと終わらせて、美術の学校に行ったけれど、
学校の方針があまり合わなくて、結局それもやめたこと。
「・・・で、俺が美術が好きなのは・・」
椅子にシャンと座り直してまつげを伏せて喋っている。
「・・美術って、答えとか、理想とか、見返りを求めないから・・・好きで・・。
俺が・・その、知り合いは人並みにいるくせに、どれも浅いかっていうと・・
・・・見返りを求められるのが面倒・・というか、恐いからで・・。わかる?」
それはなんとも彼らしい考え方で、そして優しい人間の匂いがした。
逃げ腰の、多少情けない理論だとは分かっていても、異様に惹かれた。
「えっと・・だから、実はどの女の子とも、ある程度のステップから先が無理で・・
いい子だな、って思っても、なんか・・なんだか臆病なんだよなぁ・・・」
さすがに笑えてきたので、吹き出すと、あっちも少し赤くなってから笑った。
「いいんじゃないの?見返り求められるかも、なんて、考えなくて。
私は誰にもそんなの、求めないよ」
・・・ん?なんで?と彼は言って、
だってそんなの求められるような偉い事できないもん、と言うと、
彼はそっか、と言って、二人で笑いはじめた。
喫茶店を出て、また同じ街を手もつながないで歩いた。
手なんて繋がなくたって、考えが繋がっていれば、それで十分だと今は思えた。
「あー、なんだかさー、ガキみたいな恋愛だよね」と彼が言い、
「そうだよね。最近の子ども、ませてるし、
中学生でも私達より進んでるよね」と言うと、二人でまた笑った。
それ以来、一日おきくらいに洸太郎に会っていて、もうかれこれ半年が過ぎる。
姉に、「そういえば前言ってた人と、付合ってるの?」と聞かれて、
「付合ってない。一緒にいるだけ」と私は答えた。
「恋人」ではないので、みんなには口では「相棒」とか、「親友」とか言っているが、
洸太郎は私の気持ちを知っているし、私は彼の気持ちもちゃんと感じていた。
そしてある日、デパートの前で洸太郎との待ち合わせで待っていたら、
私が洸太郎の事を何回も話したことがある男友達にたまたま会った。
「今あいつ来るよ」と言うと、見てみたいから来るまでいる、と彼は言い、また話をはじめた。
しばらくすると、明らかに友達をナンパ男だと勘違いしている表情の洸太郎がやってきた。
面白いので、友達に急いで事情を話し、彼も作戦に乗って、彼は私をナンパしているふりをした。
洸太郎は、むちゃくちゃ緊張した顔で友達の肩を叩いた。
友達が名演技でナンパ男を装って「なんだよ」と振り向くと、洸太郎は言う。
「えっと、あの、それ、一応俺の彼女なんですけど。おい、お前、ティッシュ落としたぞ」
彼の手には明らかに男物の、そしてどう見てもティッシュではない、ハンカチが握られていた。
友達と私が吹き出して、ごめんね、と言ってから全部打ち明けると、三人で笑い転げた。
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