4:BREAK

妻とは、出会いから一年半ほど、何もなかった。
週に二、三回は顔を合わせていたが、
掛林夫妻の前での照れもあり、なかなかまともに話をするチャンスはなかった。
掛林さんは、あまりにも彼自身の興味が色んな所に分散しすぎていて、
私と彼女の事には、気づかなかった。

気づいたのは、葵を娘のように可愛がってきた掛林夫人だった。
掛林夫人は、この街に一人上京してきたとたんに身体をめちゃめちゃに壊した葵を、
毎日のように家に呼び、ご飯を作ってあげたりしてあげていたのだった。
葵が一人で住めるようになってからは「何かに打ち込んでみなさいよ。辛い事も全部忘れるほどに」と葵に薦め、
それで彼女は、シュロルを踊りだしたのだった。

ある日、砂糖が切れそうだ、と掛林さんが昼の三時頃に騒ぎ出し、
「はいはい」という表情で買い出しのためにコートを着込んだ掛林夫人を車で送るために、
一緒にレストランを出た時があった。

その日、葵はいなかった。
ので、私は掛林さんの新作のデザートをモグモグやりながら、ずっと落着かなかった。
車に乗り込みながら、「今日は葵・・さんはどうしたのですか?」と聞くと、
「アオイちゃんねぇ、ちょっと風邪ひいちゃったみたいでね」と、母親のような表情で掛林夫人は言った。

高速を滑るように走る。
白い線が現われては消え、また現われは消える。
灰色の冬の真ん中にポッカリと穴があいたような、一日だけの晴れの日だった。

「ごめんなさいね、あの人ったら、ちっとも気づかないものだから」
助手席で缶のおしるこをスルスルとすすりながら、掛林夫人は突然話しかける。
彼女の言うところの、あの人、とは、彼女の夫、掛林さんの事である。
「いえいえ。いいんですよ。私たちが買いに行かないと、葵さんデザートを作れないし・・」
いつまでも小娘のような笑い方をする掛林夫人が、思いっきり吹き出してから笑えるだけ笑う。
「ちがうわよ!砂糖のことじゃなくて、あなたとアオイちゃんの事よ」
「・・・はあ・・」
それと今日は残念ながらデザートを担当するのは私よ。風邪だって言ったでしょう、アオイちゃんは。
そう付け足して、ケラケラと笑うのだった。

「本当に好きなのね、アオイちゃんのこと」
「・・どうなんでしょうね」
「男の人で隠し事が上手な人、見たことないわぁ」
と言ってから、また楽しげに笑う。
「でも・・もう諦めようと思っています」
半分は、嘘だった。
本当は、諦められないだろうと思っていたが、
言葉にしてみれば諦められるかもしれない、と思ったので言葉にしただけだった。
「あらぁ。どうして?」
「・・どうして・・って・・自分はもう、ひとまわりも年下の女の子に手を出せるような スタミナがある年でもないような気がします・・」
もう、年寄り臭いわねぇ、言い方が。と、私よりまた更にひとまわり「年寄り」な夫人は言うのだった。
すいません、とハンドルを握ったまま謝ると、
謝らないでいいわよ、と答えていつまでも隣でケラケラやっているのだった。

***

その日のあとはずっと曇りの日が続いて、とうとう雨まで降り始めた。
葵は相変わらずレストランに顔を見せていなかった。
その頃私は都内の同じ系列の二店の飲食店から、同じ形のサラダボールを沢山注文されていた。
同じ物を、いくつもいくつも作る作業が毎日繰り返されていた。
忙しくはあったが、実のところ、掛林さんとの約束をグチャグチャと断るまでは忙しくなかった。
それでも、やっぱりレストランには行かなかった。
行けなかった。

「恋人でもないのに依存しすぎだ」と思ってはいたのだが、
カウンターの向こう側の彼女の存在なしでは、どうしても掛林さんと楽しく喋る気分にはなれかった。
私は家でひたすらろくろを踏み続けていた。

形が、上手く整わない。
全く思い通りに整わない粘土のカタマリが、ろくろの上で、けだるく踊る。
それでも一応注文通りの形がなんとか出来上がると、
粘土の器の底と円盤との間を、ろくろを回しながら糸で切り取る。
切り取って少しボーッとしていたら電話が鳴った。
突然すぎて、一瞬葵かと思ってしまったが、
考えてみれば、彼女に電話番号を教えた覚えはなく、がっかりしてしまった。
掛林夫人だった。

「もしもしー?掛林ですがぁ」
「ああ。・・お久しぶりです」
「あのね、買っちゃったの!新しい照明!
それでね、それを入れる前に、天井の掃除したいんだけどね、明日あの人、いないのよ。
私じゃ天井届かないし・・来てくださらない?」
「・・わかりました。行きます」
「朝の・・そうね、十時頃でいいわ。ありがとう!じゃあ、また明日ね」
また衝動買いをしたのか、と私は呆れながら電話を切った。

***

徹夜明けのボヤボヤした頭でレストランに向かう。
ちっとも気が乗らなかった。
十時を少し回ってから、重い足取りで階段を降りて戸を開けると、
照明は半分くらいしかついておらず、空気は冷たく、雨のせいでジメジメしていて、
不気味なほど、シンとしていた。

戸を開けて、そのままそこに立って暗さに目を慣らす。
目が慣れてから、やっと見つけた。

カウンターの向こう側に葵が立っていた。
私が作った花活けを抱いて、花活けの縁に細い顎を乗せて、
無表情で、考え事をしている彼女をみつけた。

見てはいけない物を見た気分になった。
遠慮がちに「あの・・」と話し掛けると、
彼女は私を振り返って、声が出ないほどびっくりしたのと同時に花活けがズルッと落ち、
乾いた土の鈍い音を立てて、床で割れた。

擬卵の個展の引き上げの時に卵の一つを落として壊してしまった
若いスタッフのことがフラッシュバックした。

「すみません!ごめんなさい!本当に、ごめんなさい!」
若い彼は、首筋に沢山冷や汗をかいて必死に謝った。
「いえいえ。いいですよ、そんなに謝らないでも、沢山作ったのだし・・」
本心だった。
個展が成功しなかった事も反映したのかもしれなかった。
それでも彼は、しつこく頭を下げつづけた。
「ごめんなさい・・弁償します!すいません。すいません・・」
「いいのです。・・形がある物は・・」

「形がある物は、いつかはその形になる前だった土の姿に戻るのだし、だから、謝らないでください」
無意識のうちに、あの時のように、そのままを口に出していた。
彼女にはこんな小さな事で謝らせたくなかった。

葵は謝らなかった。頭も下げなかった。
彼女はひたすら泣いた。
床にうずくまってわんわん泣いていた。
店が洪水になるのではないのかと思う程泣く彼女の無垢な背中が
あまりにも闇に消え入りそうだったので、
私は不安になってしまい、将来の妻を包んだ。
両手で包み込んでいるはずなのに
何倍も大きな自分の身体の方が逆に包まれているような感じがした。

掛林夫人は、結局、来なかった。

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